「アワジ神代の伝承の風シリーズⅠ モーセ」

マースのたわごと 新番組
本当はすべてと一体なる民の物語


傷つけられても傷つけないという価値観は、勝ち負けの分離化の激しい現代社会では、 わかりにくいことでもあるでしょう。
しかし、科学的に、この世界の真実は、 そのようにできているのです。

素粒子的一体性、波動的非現実性、 物質の意識化、フォトン、電子の、和をえがく軌道等々、最先端の量子物理は、本当はこの世界を夢のような物質映画であると、解明してしまっています。

しかし、研究者の多くは、その非現実という答えにうろたえ、耐えきれず、精神世界へと旅立ってゆく者、またケミカルな答えに逃げてしまうということともなるのでしょう。

そこで、見落としてはならない大切な点は、古代の人類の形せきを見るとき、彼らは それを見抜いていたのではないかという点です。この日本の地にも、縄文と名付け、呼ぶ時代、分かたれを好まない、戦わない民が存在し、ヘブライの民も、モーセの時代、圧倒的数の、石運びの得意な屈強な男が何十万人いても、兄の軍をけちらすことなく、逃げ続けたりしました…。

現代ではわかりにくきことではあるでしょうが、要は、この分離社会の中でも戦いや、 分かたれを好まない人々が多く存在するということです。

この地の超古代においては、ラームーと いうマントラの名を持つリーダーがいて、シッディによっての未来の見通しから、 分かたれの危険性を警告し続けたにもかかわらず、民がその警告を聞かず、滅びたという伝承が残っています。

それを悔いた民が、縄文と呼ばれる民となり、ヘブライ、シュメール、フェニキアへと、すべてがひとつなるものという愛への気づき、人の本質はそれであると伝承されていったことでしょう。そしてそのような隠されてきた、でん書も、
イザ氏の想いゆえに、この地には多く和するハートが存在します。


一体を愛する民、この世界のすべてのものが霊的一体物の非現実の世界だと気づき、その本当の自らである万物真我へ還ろうとする人々は後を絶たず、現代においても 数知れず、瞑想、無我を愛する人々は多く存在します。

マントラとは、真言のこと。意味のない 言葉、無や空へ還るという意味です。
スートラとは、物質化するための意味を 持つ言葉という意味です。

ベーダにおいても、また、この国の古き古文書、いや、世界中の一体を伝える古文書、精神世界、ニューエイジを愛する人々は数知れず、その真意は本当の自分(空・無・一源)へ還ることであり、思考なき一体の愛へ戻ることをメディカル、メディテーションと呼び、真の癒し(メディカル)は、一体性への気づきが基本であると気づかれ、日々、世界中でそれが試みられているのです…。

今、誰もが愛へ還ろうとする時代へと、人々は、未来へ向かって強く動きだしています。

それゆえに、聖書というヘブライの書物にも、はじめに言葉という分離を即す名称付け(スートラ)があらわされ、神はこの霊的世界を物質化(分子化)したと記され、それを真似ようとしたアダムのイブは、ヘビにそそのかされ、知識、思考(分離分かたれ)の果実を食べ、自我化し、そこから生まれる比較、競争、うぬぼれ、劣等、争いの苦しみの世界を作り続けることとなったことからはじまります。

そのもっとも古き書物は、長年にわたり、ただただ分かたれ自我の問題点を記し続けていて、それを悔い改めるよう、民族に、 いや、子孫たちへ、世界へとさとしているのです…。

その書物が世界的最古、最大のベストセラーとなっているのも、人々の潜在的価値の中には、いつでも万物への帰還への渇望、一体性ゆえの無我性、エゴへの懸念、分離への疑問が彩られていると感じます…。

それゆえに、ヘブルの民は、神の民、 神を愛しむ、無我を愛する、万物自然と
一体であることを尊ぶ民ゆえの行動を取っていることが、見て取れます…。

現代社会にもあるような、気づきを持った者が必死に友に気づきをさとそうとするように、兄へ愛へ還るように必死に伝えるモーセ。そうしなければ兄は、自らを滅ぼしてしまうほど誠実な人で、本当はみな神の子であり、神の一部であることを説いたのでしょう。

アロンから、そしてヘブルの民から一体性を学んだゆえに、傷つけられても傷つけない、ヘブルの民の教えを大切にし、モーセは人生をとことん悔いたのでしょう…。

その教えは、ムーの石版、霊感の書(今残る色即是空はその一部)、そこから十戒や、 アロンの杖となったのでしょう…。

他を大切にし、それは他国、他人、他と思う分かたれ意識は偽りであるとの、和する 気づきを持って、モーセに習い、東へ向かったイザが美しく明かされ、見えてくるのです。

人のふるさとへ決して侵入、奪うことをしなかったモーセは、傷つけられても傷つけない信念のもと、大草原で大変多くの民をやしなわなければならず、家畜さんや、 五穀をまき、それをいただき、生きたのです。マナとは五穀のことであり、油でいるとポップコーンのように、「おこし」や「ひなあられ」のようになり、増えて人を癒したことでしょう…。

それゆえ、ヘブルの民にとっては、お米が神であり、身を提供してくださる動物さんが、縄文の民と同じように神であったのです…。

お米はそれゆえに、貨幣ともなり、
和する国やまとでは尊ばれ、大切にされたのです…。

MARTH

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